水引ライナーをご利用いただいている皆さま、いつもありがとうございます。
久々の更新となってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願いいたします!
昨年は水引ライナーがご提供する唯一の基礎メニューである水引毬飾り®︎が商標登録もされ、水引の基礎習得の場がだいぶ整ってきたように思っています。今年からは次の段階として、基礎ができた方が自由に活用できる百科事典やデータバンクの構築に力を入れていきたく、新サイトも複数制作中です^ ^
時代に左右されず長くニュートラルに学び続けられる環境を、より使いやすく整えてまいりますので、ぜひ引き続きご活用いただければ幸いです。
ここで少し、年のはじめに
miconoが考える水引とこれからについて書いておこうと思います。
水引は、地域や流派などで多様な表現方法や約束事があったり、伝承や解釈も様々でとても一括りにできるようなものではなく、私も職人を経験しひとつの流派といえるものを土台に教えを大切にしていますがそれが全てではないとも思っています。水引ライナーは水引の文化的要素に関して、特定の流儀にこだわることはなく、様々な事例をシェアし合えるニュートラルな環境を保ってきました。
そんな活動を続ける中で、正しさというのはどこまでいっても決められないけれども、水引において共通していることが見えはじめました。価値観が多様化し時代の変化も加速している今、水引を残していくにあたり最も伝えなければならないのは、まずは見た目の違いを超えたこの水引の根底にあるものだと感じており、これまであえて語らずにいた「水引とは」をはじめて言葉にしてみました。
私が捉えている現時点での水引というのは、
「想いが結びに込められ、届くまでの間守っているもの」です。
見た目(結果)は違っても、はじまりに何かしらの想いがあることは同じ。それぞれの時代や地域で、人々がその時最善と信じたことが水引によってカタチとなったもので、言葉にせず何かに込めて伝える日本人らしいコミュニケーションの一つとも言えます。そして水引飾りには必ず「結び」が使われています。向こう側にあるもの(相手や信仰の対象、願う未来など)にその想いが「届くこと」=「結ばれる」ことでもあり、先に水引を結ぶことでその未来を確定しようとしている行為とも捉えられます。また他の結びとの違いは「一度きり」ということ。作る時もやり直しが効かないし、想いが届くまでの一度きりの結界と言えます。
ここまでのことを踏まえ、次に技術面でかかせないのは
「過不足なくメリハリをつけること」です。
水引は綺麗に結び直すことができないので、美しく結ばれている姿それ自体が、第三者によって手が加えられていない事を証明しています。よって最初から折れてたり綺麗に仕上がっていなかったら、そもそもの役目を果たせないと言うこと。なぜ水引は紐のように結び直せないかというと、紙素材による独自のメリハリがつけられているからです。柔らかさが均一なロープや紐は結び直しても変わらないですが、水引は一度解くとそのメリハリが崩れ元に戻せないからいじったことが分かるのです。熟練職人の結びは迷いがなく、見ただけで触れてはいけない結界みたいなものを感じとることができ、儚いようで何かを守る強さがあります。結界の強さは、メリハリの強さとも言えるかもしれません。
しかし残念ながら、それは素材の特性上結んだ瞬間からどうしても多かれ少なかれ徐々に薄れていってしまいます。水引は一般的な工芸品のように経年変化を味わうような類のものとも少し違い、やはり繊細な素材故の「儚さ」がどこまでも付き纏います。でもだからこそ「一度きり」という清さが際立つのでしょう。水引をかけるということは、鍵をかけてガチガチに守るのでなく、触れてはいけないと感じさせる、日本的な美しい守り方だなと思います。
まだまだスマートにまとめられず生まれたてという感じですが、このようなことを、水引の根底にあるものとして問い続けながら、これもまたガチガチに守らせるのではなく、大切にしたいと感じてもらえるよう伝えていきたいと思います。
水引ライナーのスローガン「Pray & Play! Mizuhiki」は二つのプレイ(Pray : 祈り、願い / Play : 遊び心、所作、自由に操る)で成り立っていますが、これが最初のPrayの部分にあたります。
Prayがより明確になりこれからの水引の伝承について考えている中で、意外な発見もありました。水引は月日が経った実物よりも、結んだ瞬間の画像の方がより本来の姿が伝えられるのでは、と気づいたのです。
書籍等に残された記録も、結びたての画像というのは意外と少ないように感じますし、名工の当時の作品は今も残されてはいますが、現役で今、技術を再現できる職人は高齢化や後継者不足で危機的状況です。既成の水引製品も、海外で作られたものなども多く、やはりどうしても流通時の傷みが避けられません。
私が魅せられた結びたての水引の美しさを知っている人は思った以上に少ないのではないか。紙素材の繊細さ、清らかさ、しなやかさ、、水引独自のメリハリある線の美が最も輝くのは結んだ瞬間で、その姿を逃さず記録したものこそ後世に残さなければと思うに至りました。職人の端くれではありますが何十年結び続けた師の手元を間近で見てきた貴重な経験から、大そうな作品ではなくとも、この「水引らしさ」の原型を正確に残すこと、これは自分がやらねばと心に決めました。
また、飯田市の名工であった関島登さんに関する記事で「創作は完成品を参考にすることはない。結びがまず第一にあり、そこから自分で発展させていく。」と言うようなことを読んだことがあり、まさに師をもたずして水引を工芸品の域にまで高めた先駆者の言葉です。これから時代の波を越え水引を進化させていくことを目指すにあたり、拠所となるような考え方であり、作り方ではなく土台を重視する水引ライナーの理念とも繋がります。
これまではどこか水引アートの新たな可能性を探ることが水引の進化に繋がると思っていたところがあり、そこが活動のスタートでしたが、それだと世の中に見えるのはいわば枝葉の部分で、枝葉の寄せ集めで新しいものは生まれにくい。必要なのはやはり確かな土台で、そこがあれば枝葉は勝手に育っていきます。
これから私はしばらくの間新しいものを「結ぶ人」ではなく「紐解く人」となり、これまでの水引飾りをみんなが再活用できる原型にまで一度解体していき、それを正確でかつ水引らしく、未来永劫活用できるピースとして残すことにひとつ取り組んでみようと思っています。
水引素材を扱うための基礎と心構えは「水引毬飾り大全-Sphering-」で伝えてきましたが、その次の段階、基礎ができた方に活用してもらうための結びの型を集めた「むすび百科事典-MUSUPEDIA-」、水引の様々な伝承などの歴史も、デザインの素材や道標として活用できるようデータバンクを整えます。これらのサービスを活用していただき、あなたの想いをもとに、それぞれが踏襲するやり方や思想などを絡めて発展させたり、見た目のカタチは変わっても変わらなくても、その時の最善を想像して導き出しながら、これからも水引が水引らしく進化していってくれたらというのが願いです。
ただ、ここまで語ってなんですが…水引に関して伝えられている歴史も、神聖さを勝手に作り上げたり、美化しているところもあるかもしれず、もっと曖昧で、本当は深い意味はなかったり、勘違いだったり、醜い部分すらあったかもしれず、実際に見たことはないのだからあくまで囚われずに参照するものです。はじまりはひょんなことから偶然生まれたものが一般化したのかもしれないし、長い時間をかけて試行錯誤の上で考え出されたのかもしれないし、、ただ、そういうことが、これからも、いつだって起こり得て、私もあなたもその当事者となり得ると思うのです。
※ちなみに、水引ライナーも美大出身のロマンチストmiconoのフィルターを通して伝えているものなので、作品クオリティは当たり前、どうしても美化される方に偏りがちなことはここで伝えておきます。笑
最後にもう一度伝えたいのは、正しさはどこまで行ってもないということ。これから水引を進化させていくには、未来を想像して、少なくとも、まず自分が胸を張って「いい!」と語れるものを作っていこうぜってことです。
Pray & Play! Mizuhiki「水引の歴史への敬意とともに、水引をおもいのまま表現しよう!」
その為の土台と素材、創造的でニュートラルな学びの場を提供していくことで、水引の未来を作っていきます。
micono