何かを伝えるのには整合性をとって言い切るのがいいようにも考えていたんだけど、そもそも何をもって正しいことにできるんだろうとどこまでも疑問でしかなく。

私普通に勉強はする子でしたが、なぜか歴史の授業って全くピンと来ず、多分これなんかおかしいんじゃないかって思ってたんだけど🤣その感覚まんざらでもないような気もしてて…笑

よく分からないけどそう感じる、なぜか起こった、どうしてもこうなる、心が動かない、っていうような理屈が分からない事の方がますます信頼できるように最近なってきたんですよね。

私の話は、〜な気がする、〜な感じ、〜かもねってふわんとさせてる事が多いですが、最近は意図的にむしろそれで良くて「分かった」と思わないようにしてる。そこで止まるし。言われた人も止まるし、囚われるし。

ほんとの「わかった」は、調べたり勉強して分かるというより、そこに意識が追いついた時に起こるんだと思う。

こうかもね〜ああかもね〜って可能性を開いていく方が良さそうだなって感じる。

でも、まわりと違っても自分の感覚を信頼してあげるってとても勇気のいる事だから、私はそれを一番守ってあげたいなと思うんです。

小さな声でも、誰かが本音を言ったりハートを開くことで、周りも少しずつ解かれていく。

その時はモヤ…ズキっドキっとさせて嫌がられたとしても、受け取った人が何かしら気付いて本来の方向へ動き出せばそれでいいと思って私はやってる。

何にも当てはまらず、裏付けもなく、なんとなくでもいい、理屈なくそう感じる事を拾ってあげていると、その人のときむすびがはじまる。

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ときのカケラを繋ぐ、ときむすび。
解いて結ぶ、ときむすび。